2010/06
電気事業の開拓者 藤岡市助君川 治


 岩国の城下町のはずれにある岩国学校教育資料館。ここは明治の初めに建てられた岩国学校を活用しており、その昔藤岡市助も通った校舎だ。

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 錦帯橋を渡るのに300円の入場料を払わなければならないのは少し不愉快であったが、この橋は寺社建築の木組みの建造物で、寺社建築の建設会社しか出来ないと知って納得。約330年前に造られた錦帯橋は翌年の洪水で流されてしまった。原因を徹底究明して造られた2代目は流石に頑丈で、270年以上持ちこたえたが昭和25年の台風で流失した。3代目は昭和28年に完成した。現在の真新しい錦帯橋は平成16年に完成した4代目である。これからは半世紀毎に架け替え工事を行わないと技術の伝承が大変だろう。
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 岩国を訪れた日は、8月の30度を越える日だった。在来線・山陽本線の岩国駅前の観光協会で「城下町岩国の史蹟を訪ねて」という街歩き地図を貰って早速、初めて見る錦帯橋を目指した。
 幕末、この錦帯橋を渡って藩校養老館に通ったのが藤岡市助である。岩国藩の由緒ある藩士の長男として安政4年(1857)に生れ、幕末から明治の激動の時代を生きた男である。
 藩士の教育に力を入れた岩国藩は1847年に藩校養老館を設立して文武両道の教育を奨励した。幕末から各藩には西洋式の兵学校や語学所を設立して藩士の教育をする所が多く、岩国藩も1871年に岩国学校を設立した。この岩国学校には小学校、中学校、英語学校が設けられ、藤岡市助は15歳で英語学校に入り、英人教師スティーブンスから英語をはじめ世界地理や数学、天文学、物理学、化学などを学んだ。
 この学校で頭角を現すと旧藩主に東京遊学を命じられ、明治8年に工部省工学寮電信科に入学した。市助は工学寮3期生で、電信科の同期には中野初子や浅野応輔がいた。
 市助は教授エアトンの指導を受け、1878年に同期の中野、浅野と一緒に工部省中央電信局落成記念式典でアーク灯の点灯をした。この3月25日が「電気の記念日」と定められているが、この点灯実験は藤岡市助の将来を予測させるものであった。
 藤岡市助は工部大学校卒業後、母校の助教授になるが、電灯事業計画を作成して、郷土の先輩で工部卿の山尾庸三に相談した。
 山尾はこの計画を当時の財界主力メンバーの渋沢栄一や大倉喜八郎などに説明し、旧藩主の毛利公爵家にも協力を要請して、明治16年に「東京電灯」が設立された。市助は助教授職と兼務で技術顧問に就任し、電灯用の発電機の設計や電球の研究を行った。当時の電灯事業では電球は未だ輸入品に頼っていた。
 明治17年(1884)に教授に昇格した市助は、米国で開催された万国電気博覧会の視察旅行に出掛けた。発明王エジソンに会い電球開発の苦心談を聞き、更にはフィラメントに京都・長岡八幡の竹が使用されているのを知って電灯事業への思い入れが強まり、ついには明治19年に大学を去り東京電灯技師長として、電球の国産化にむけた開発研究と試作を繰り返した。
 しかし電灯会社は発電所の建設と各家庭への配電が主力業務である。東京電灯は電力供給事業に専念する方針を打ち出したので、市助は電球製造を別会社で行うことにした。
 三吉正一は岩国藩出身で藤岡市助の4歳先輩である。彼は工部省の電信修技所で学び電信機の製造や運用業務に携わり、その後独立して三吉工場を設立していた。同郷のよしみで市助が応援していた三吉正一と組んで市助は、明治23年に「合資会社白熱舎」を設立して電球製造を始めた。
 最初の頃は1日に10個の電球を作るのがやっとであった。明治29年に1日30個くらいの製造が出来るようになると「東京白熱電灯球製造梶vと衣替えし、明治31年には「東京電気梶vとして自ら社長となった。
 市助は電灯製造や発電所の建設の他、浅草凌雲閣に国内最初のエレベータを設置し、明治21年には東京電気鉄道設立出願をするなど、常に新しいことに挑戦し続けた。事業が軌道に乗ると、その仕事を後継者に任せて自分は次の仕事に転職するのであった。
 東京電気鰍ヘ後に田中久重設立の芝浦製作所と合併して東京芝浦電気(現東芝)となり、東京電灯は東京電力の母体となる。藤岡市助をルーツとする大企業は現在も健在である。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)





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